桂林莊雜詠示諸生
             広瀬淡窓

   休道他鄕多苦辛

   同袍有友自相親

   柴扉曉出霜如雪

   君汲川流我拾薪



    桂林荘雑詠(けいりんそうざつえい)諸生(しょせい)に示す
                (ひろ)()淡窓(たんそう)

   ()うを()めよ()(きょう)()辛多(しんおお)しと

   同袍友(どうほうとも)()(みず)から相親(あいした)しむ

   (さい)()(あかつき)()づれば霜雪(しもゆき)(ごと)

   (きみ)川流(せんりゅう)()(われ)(まき)(ひろ)わん

 中国語による上の詩の朗読朗読
田原健一氏画

    【通釈】 起句 他郷に来てつらいことが多いなどとは言うものでない。
             承句 一着の綿入れを共用するような親友がやがてできるのだ。
             転句 早朝しおり戸をあけて外に出ると、まっ白におりた霜はまるで雪のようだ。
             結句 (寒気はきびしいが負けずにさあ元気を出そう)君たちは川の水を汲んで来
          たまえ、私は薪を拾ってこよう。(さあ朝食の支度だ)

    【語釈】 休道 言うをやめよ、言うな。 休はやめる、やめよ。道は言う。
            他郷 よその土地、故郷以外の土地、異郷。
             苦辛 苦しみ。
             同袍 親しい学友。一枚の袍(綿入れ)を貸しあって助け合う意。
             柴扉 しばを編んで作った粗末な門扉、しおり戸。

    【押韻】 平声十一眞韻  辛、 親、 薪。

    【解説】 広瀬淡窓(1782-1856)は江戸時代末期の儒者、詩人。名は建。淡窓は号。 豊後
      (大分県)日田の人。子供の頃から学を好み16歳のとき筑前(福岡)の亀井南冥(か
       めいなんめい)、昭陽(しょうよう)父子に入門したが、二年後 病気のため故郷
       日田に帰り療養しながら独学した。
       24歳の時 儒学によって身を立てることを決意し塾を開き、26歳の時 塾舎を新築し
       桂林荘と名づけた。塾生は全国から集り、塾舎で起居を共にした。この詩はその塾
       生たちに示したものである。
       のち、塾生も増えて手狭となったので、近くの地に咸宜園(かんぎえん)を作り、
       そちらに移った。淡窓は安政3年(1856)75歳で病没した。が、咸宜園はその後も
       後継者によって受けつがれ明治30年閉塾までの門下生は4,800名を数え、 高野長英、
       大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬といった知名の人材が輩出した。 この詩は、厳し
       い環境の下で学問に志す若い学生たちをさとし励ます温かい愛情に満ち、淡窓の人
       柄を示す名作です。
       教育の本質を今日改めて考えさせられます。
                                        (玉井幸久)