会員からの寄稿

 

4. 漢詩鑑賞お薦め本閑話
                          
詩游会 新井治仁


 「人生はままならないものだ。ままならないのが人生だ、と言ってよい。」で始まるこの書き出しに惹かれて、手にしたのが、漢詩を初めてしばらくしてからであった。
 もともと、中国文学に興味はあったのだが、戦後の昭和育ちの通弊で、蟹行の書を優先して、翻訳ものに青春を費やすことが多かった反省も含め、退職後は原点回帰でたどり着いたのが、漢詩の世界であった。
 漢詩づくりの基礎が叙景のデッサンであることは、言うまでもないが、少し花鳥風月の繰り返しに厭いていたところ、「人生」を題字に掲げて真正面から取り上げていることに、単なる解釈本ではない新鮮さを感じた一冊が、「漢詩と人生」(石川忠久・文春新書)である。
 目次を見ていただこう。①ままならない人生。②老いて思う。③家族の絆。④閑適のくらし。 ⑤憂いを払う玉箒。(酒の詩)⑥出会いと別れ。
 漢の武帝から日本漢詩まで味わい深い三十六詩を選び、作者の感慨も込めて鑑賞している。まさに、「終(つい)の趣味」として漢詩に出会い、いつでも、どこででも座右にあって、読み返すに適した手ごろな一冊だ。なかなか全集や大書を通読する時間も根性もないし、積ん読本が部屋に溢れる現状では、上着の内ポケットに入れて、繰り返し読めるような一冊を探し、電車や、枕辺で使えるのが良い。
 そのほか、以下の各書は、折に触れて、乱読する鑑賞本である。
 ➀「新唐詩選(前編)」吉川幸次郎・岩波新書 ②「唐詩概説」小川環樹・岩波文庫 ③「杜甫ノート」吉川幸次郎・新潮文庫 ④「漢詩を読む一〇〇選シリーズ」石川忠 久・NHK(春・夏・秋・冬の詩、李白・杜甫・白楽天など) また、今年、「中国名詩集」井波律子が文庫本(岩波現代文庫)になったので、再読している。
 また、漢文学習書では、「漢文の話」吉川幸次郎(ちくま学芸文庫)のほか、「漢文法基礎」加地伸行(講談社学芸文庫)が為になる。後者は受験生向けとしているが、実は漢字文化論にもつながる面白い読み物です。


3. 漢詩この一冊
                          
以文会 大森冽子


「漢詩を読む」 平凡社、全四冊、宇野直人 江原正士 共著

 1.詩経、屈原から陶淵明へ  2.謝霊運から李白、杜甫へ
 3.白居易から蘇東坡へ     4.陸游から魯迅へ

  漢詩集は通常、漢詩白文、読下し、語釈、及び通釈からなっており、そしてやたらと多数の漢詩が並んでいる。その中で、語釈・通釈はその詩の鑑賞を手助けするものとの位置づけである。しかし、初心者にとっては、その詩の素晴らしさがどこにあるのか、その詩が生れた時代背景はどういうものなのか、どのように鑑賞すればいいのか等、基本的なことが分からない。
 この本はこのような漢詩初心者の悩みを一挙に解決してくれ、漢詩に親しみを覚える優れた漢詩鑑賞の一冊である。本の構成としては、詩経から魯人まで中国を代表する詩人の漢詩について、時代順に各詩を白文と読下しで記し、宇野直人と江原正士が対談方式で、各詩にまつわる時代背景、故事の説明、詩人の性格・気質まで述べ合っている。宇野直人は多面的切り口で詩人の知られざる一面を解き明かし、対する江原正士は俳優で漢詩に並々ならぬ造詣を持っており、二人の息の合った対話に思わず頷いたり、にやりとしてしまうことしばしばである。

例えば孟浩然の春暁 「春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少」では

 宇「一見のんびり春を楽しんでいるような詩です。」

  江「悟ったというよりは、まあ情景描写ですね。何か意味合いがあるんでしょうか。」

 宇「朝寝坊ができるというのは、官職についていないという告白になるんです。」

 江「当時のお役人はずいぶん朝早くから勤めに出るんでしたね。」

 宇「まだ星の見えるうちから宮中の門の前に待っていなくてはいけませんでした。」

 江「ウチでぐーたらしているということですか?」

 宇「風雨は『詩経』以来、逆境のたとえで

  〝私の人生、今まで雨風続きで暗かった〟と。」

 江「すると武士が「春眠暁を覚えず」と格好よく言ってるさまではないわけですね。」

まるで話を聞いているかのようにいつの間にか詩の理解が深まっていくのです。

 


 2. 水墨画と自詠自書について

                                     鎌倉漢詩会・会員 鈴木栄次


鎌倉芸術館にて平成28年4月2~4日「墨に遊ぶ米寿の書画展」を終えてひと言 

  吾輩はモノクロが好きである。何故だか知らない。色彩感覚が鈍いためだろうか。とにかくモノクロが好きである。25、6歳のころ、よく山登りして写真を撮った。勿論モノクロである。それを引き伸ばして飾りたいが金がかかる。そこで写真を筆と墨で描いてみた。所謂半紙サイズである。額に入れてみると、なかなかイケるではないか。それが水墨画と言えるのかどうか知らないままに、時々気に入った写真が撮れると墨で描くようになった。絵にすると邪魔なものは省略できることも有難い。

  その後あまり描くことはなくなったが、停年近くになって思い出した。水墨画を趣味にしようと。山田玉雲の「竹の技法」「山の技法」「水の技法」その他10種ほど買入れて自習した。従って、吾輩に師匠はない。強いて言えば師匠は山田玉雲となるか。所属団体としては、一時期鎌倉で霞峰会に入っていたが、現在は無所属である。旅行すれば墨や水彩でスケッチして、気に入ったのを水墨画にする。また、水墨画展や写真展、新聞・雑誌で惚れ込んだ作品を見ると、真似したくなる。そんないい加減な楽しみ方をして来、またしている毎日である。

  水墨画の掛軸には、漢詩が付けられている例が多い。確かにカッコいい。さいわい吾輩も漢詩を作るようになった。短歌も始めて10年になる。自分が作った漢詩や短歌を書にできるようになってみたい。そこで書道教室に入ってみたが、半年でやめた。細かい注意や指図・小言に閉口したのだ。幸い吾輩は中学3、4年のとき、勤労動員中に仲よしになった高等師範の学生が達筆で、毛筆を教えてくれ、また叔母が手紙の書き方の本を貸してくれたので、1冊全部半透明の紙にマル写ししたことがあった、という体験をしている。そこで娘の高校の書の教科書を元に、自習で書きまくっているうちに面白くなってきたのである。従って、師匠もなければ所属団体もない。

 纏まって毛筆の書を書きはじめたのは、50歳のころである。両親が老眼になりペン字の手紙が見難くなったので、巻紙に小筆で近況をしらせるようになったのが切っ掛け。條幅に太筆で書くようになったのは、85歳になった昨年のこと。鎌倉漢詩会で自詠自書の展示会をすることになって、挑戦したものである。固い書体、柔らかい書体、細い金釘流、太い雄渾な字、カスレ多用の書、大小取り混ぜた書、いろいろ試して面白がっている昨今である。

  最近は、太い筆で畳一枚ほどのデッカイ一字を、アート風に書いた作品を見て惹かれ、自分でも書くようになった。藁や草などを束ねて筆替わりにすると、面白いカスレが出たて、天意かと思うほどの偶然の味に引きこまれる面白さを楽しんでいる。

 かくして吾輩は、書き貯めた書と水墨画を、ズラリ並べて見てみたい思いに駆られた。思えば今年は米寿の年である。そこで生涯の一区切りに、個展をしてみようかと思いたった。「墨に遊ぶ米寿の書画展」と銘打って鎌倉芸術館で4月初めの3日間開催した。鎌倉芸術館ではこれまでに3回、個展と二人展を開いてきた。勝手知ったる会場である。展示品は漢詩の書7点、短歌の書5点、水墨画19点、アート書11点、スケッチ2点、スケッチ帳2冊、である。

 今後は、合同展(書と水墨画)が年2回はありそうなので、個展は当分見送ることになるだろう。2年後の卒寿にもう一度と思わぬでもないが。

                      
 
 
 


 

1.  漢詩の世界に「片足」突っ込んでみて

                                                 原 田 睦 夫

 

 私にとって高校当時、漢詩・漢文なるもの、最も不得意とする授業科目で、以来五十五年、ふたたびこの世界に足を突っ込むとは思いもよらないことでした。
 実は、新聞の隅っこ?になんか、神漢連による漢詩への誘い欄があり、それを見て、やってみるかな?ということで半信半疑ながら「平成二十七年度 漢詩初心者入門講座」を受講してみました。
 六回にわたる漢詩鑑賞、並びに漢詩作法の基礎、これは七言絶句を基に、押韻・二四不同二六対・禁下三連四字目孤平冒韻・反法粘法などの導入学習でしたが、これがよかった!
  講師先生方のこの懇切丁寧なご講義に感銘を受けて、よし引き続きやってみよう!と決めました。この間にも、五月下旬に山手のエリスマン邸での神漢連有志による「自詠自書交流会作品展」を鑑賞する機会も背中をポンでした。 

 入門講座受講後、神漢連が用意して下さった今後の漢詩習熟のための選択肢(鑑賞会A・B・C)の中で、私は現在、Cの「七絶一歩」の聴講と、特にBの「唐詩選画本」の輪読会に参加させてもらっています。

 鑑賞会Bのテキストは、座長である住田笛雄先生が用意して下さっているもので、表題に「唐詩選畫本 七言絶句 續編」とあり、これは江戸の儒学者荻生徂徠の弟子であった服部南郭が「唐詩選」に訓点を付けたものに寛政期に紅翆斎主人という人が自らの作画で画本化したものか。
 詩題にまつわる背景画は、山水風景の中の唐風の建物・人物等、以前私は墨彩画をチコッとかじったこともあり、趣があって非常に楽しい。
 それと本文の書体表現は、行書体を中心に階書・草書体、それと器用にデフォルメされた篆書体・隷書体も含め、これらは「書写」の勉強にもなりそうな代物です。
 さらに楽しいのは、本文の送り仮名や通釈文が一貫して「変体仮名」であること。これらを皆で刻銘に読み解いていくこと、だから「輪読会」なのだと納得がいきました。今のところ、住田先生をはじめ、鑑賞会の先輩の皆さんが輪読資料を用意して下さっていますが、その資料収集力?の凄さ、敬服の至りです。月に一度ですが毎回の輪読会が楽しみです。

 最後に、私は表題のごとく漢詩に「片足」を突っ込んでおりますが、大いに「両足」を突っ込むほど漢詩に入れ込めるかどうか、今のところは「自由」の状態でありたいです。