鎌倉漢詩会 礒野 衞孝先生 妖魔寇異聞28篇 画面では一首ですが下に他の詩が連続して入っています。 |
飯沼一之先生(本連盟竹林舎舎友)詩集 |
五言絶句・小庭花花 十首 画面は一首ですが下に他の詩が連続して入っています。以下同様です。 |
五言絶句・野鳥 十首 |
七言絶句・羇旅十五首 |
七言絶句・雑詠 十二首 |
寄松坡文庫研究会作 鎌倉漢詩会 礒野 衞孝先生 |
東日本大震災二千九百日(八年)有感 礒野 衞孝 |
明治の人 福澤諭吉の漢詩について
平成の時代を生きている皆さんの中で、毎日のようにお世話になっている明治時代の人は誰でしょうかと質問されて、それは一万円札の福澤諭吉でしょうと答えた方は何人おられますか。クイズまがいの書き出しで少し恐縮ではありますがその福澤諭吉が百余首の漢詩を残しているお話しをさせていただきたいと思います。
最近のテレビ番組で明治を時代背景としているものが多くなりましたが、明治維新により開国はしたもののどのような社会を作ればよいか、行く先の見えない時代でありました。その時いち早く米国・欧州を見分して文明開化を訴えた福澤諭吉の功績は、非常に価値のあることであります。それから百五十年、幾多の変遷を経て平成の今、あまりにも欧米化され世界の混乱の渦の中に巻き込まれている現状であります。戦後七十年を過ぎて今度は逆に日本を改めて見直す時であるとも言われますが、福澤先生の言論、又詩文のように大きく前途を見据える目を養うことが必要と思います。
先生は天保五年(西暦一八三五年)九州の中津で生を受け、幼少の頃より漢学に秀でていたので二十歳で早くも長崎に蘭学の勉強に旅立ち、大阪へ移り緒方熟では塾頭を勤めた後、江戸へ出てからは次の時代である米語を習得されました。勝海舟の咸臨丸に搭乗して米国を見分し、引き続いて岩倉具視の欧州視察団に加わって、世界各国を知り、帰国後はいち早く開国論を主張し、独立自尊を唱えられました。政治論争にしばしば巻き込まれることもありましたが、終始学者として野に立つ態度で論文を発表し、慶應義塾を開いて子弟の教育に努められました。
欧米一辺倒のように見られがちな福澤先生ですが、明治十一年頃、四十四歳を過ぎてから、再び漢詩を作られるようになられました。ご自身でも書いておられるように、幼少の頃に習い憶えた韻や平仄を少しも忘れてはいなかったとのことです。福澤諭吉全集に百三十余首が載せられていますが、先生ご自身が半紙に墨書して、手作りの詩集風に纏められたものは約三十首に過ぎず、大半は知人への手紙や論文原稿の余白などにメモ的に残されたものが没後に全集を編集されるに際して各方面から集められたとのことです。
その内容は殆どが七言絶句ですが、詩人としての詩文というよりは、思想家として自分の感慨を述べたものが多いように感じます。美辞麗句にはあまり関わらず故事や比喩を用いて社会を写し出すような詩、或いは社会批判的な詩も多かったためか、現在まであまり評価はされていないような気がいたしますが、この百三十首は同時代の夏目漱石の二百八十首、森鴎外の百三十首に比べても、先生自身の考え方を模索する資料としては充分であります。
その詩を拝見してみますと、世の中のことを高所から眺め,何事にもとらわれない自由の目で作られていますが、当時は世情が混沌としていた時代であり、言論も政治の道具に使われることも多く、時代背景をよく理解した上で読む必要があります。
具体的にはやはり作り始められた明治十一年からの約十年間にかなり集中しており憲法論・帝室論等が発表され又、報知新聞発行等の政治的社会活動の他、横浜正金銀行創立の金融・経済面で活躍された時期であったので当然なことと考えられます。論文を書き終えられ一息つく時の感慨、又それにより社会が反応した時の感想、さらに知人友人に送られた詩も数多くあります。中には塾生との対話の中から作られた詩又、私的な面では二人の男子五人の娘との動向にも言及され、更には多忙な中で時々行かれた箱根の温泉の詩も含まれております。
さてここで福澤先生の詩集から何首かを紹介したいと思い読み返しておりましたところ、先生には年頭に詩を作られることが多くあることに気付きましたのでこれを経年的に選んでみました。併せて年表的な出来事を添えることにより、先生ご自身の心情が何か少しでも読み取れるような気が致します。
当時の社会情勢はどうかと申しますと、明治九年に廃藩置県が実行され、西南戦争が同十年に終わり大久保利通が同十一年に暗殺された頃で、伊藤博文を中心にして各種法律の制定、国会開催の準備が進められた頃でもありました。正に文明開化せんとする黎明期でした。その後憲法発布は明治二十二年 第一回国会は同二十三年 日清戦争は同明治二十七年と時代は移って参ります。(末尾の年表参照下さい)
❦明治十二年(作者 四十歳)
己卯新年
自出鄕園廿六春 郷園を出でてより 廿六春
天時人事屈還伸 天時と人事と 屈して還た伸ぶ
半生行路消無跡 半生の行路は 消えて跡なきも
一片雄心與歳新 一片の雄心は 歳と與に新たなり
又
日章映日吐紅霞 日章は日に映じて 紅霞を吐く
朝麗東京千萬家 朝に麗わし 東京の千萬の家
春色不須洋上雨 春色 須たず 洋上の雨を
扶桑本是自開花 扶桑はもと是れ 自から花を開く
この時期、国会開設が叫ばれ、先生は「国会論」を執筆されて英国式議会制度を提唱されましたが、時の社会情勢に受け入れられなかったという背景があったと言われていますのでこの年の除夜の詩も見てみたいと思います。
❦明治十二年(己卯除夜)
除夜
今是昨非嗟己遲 今は是なるも昨は非なり 己が遲を嗟く
春風秋月等閑移 春風秋月 等閑に移(あるがままに過ごす)
頭顱四十六齡叟 頭顱(骸骨→引退の意)四十六歳の叟(としより)
老却一年無一詩 老却して(すっかり老い)一年に一詩なし
しかしながら実際には十数首の作があることを銘記すべきであります。この詩にある頭顱は中国の故事に基づく詩語で、生身の人間ではない即ちすでに引退した身であると書かれています。明治十二年頃は先生の弁論は多岐に亘って展開された時代であり、何を以て引退の意を表明されたのか問題となるような事態も見当たりません。しかし何事かがあって先生の心境に変化があったことと推測されます。
❦明治十三年
庚辰元旦
屠蘇傳飮入佳辰 屠蘇傳飲して 佳辰に入る
七子團欒伴二親 七子団欒して 二親を伴う
笑吾廿年如一日 笑う 吾が廿年一日の如く
無災無害又逢春 無災無害にして 又 春に逢いしを
この年の元旦の詩で初めて正月らしい風物が読みこまれていますが、それは飽くまでも表面上のことであって何か大きく内に秘すものがあるようにも感じられます。さて次の明治十四年と、十五年の元旦の詩は見あたりませんがこの時期は井上薫や伊藤博文の権力に対抗して政治特に国会問題等で世論を喚起するため、報知新聞を創立し、論陣を張ったので、極めて多忙であったためか、又別に作られない事情があったのではないかとも推測されます。
❦明治十六年
癸未元旦
無所思還有所思 思ふ所無くも還た 思ふ所あり
半生心事笑吾非 半生の心事 吾が非を笑う
兎烏五十等閑去 兎烏(歳月)五十 等閑に(なおざり)去りて
天命如何尚不知 天命 如何 尚お知らず
❦同じく明治十六年
癸未元旦試筆
十方無碍太平春 十方(天下)碍げる無く 太平の春
負郭寒門亦吉辰 負郭の寒門(三田にある我が家)も 亦 吉辰
淑酒酌終時試筆 淑酒 酌み終りて時に筆を試むれば
縱橫自在氣如伸 縱橫自在 氣 伸ぶるが如し
【註】十方・・・八方と上下であらゆる方向すなわち天下のこと
負郭・・・負郭田の略で、郭すなわち城を背にした田を持つ人の
意であるが、先生の住む三田の田に掛けた詩語かと思われる
寒門・・・城門の北は寒くすなわち貧しい家の意
報知新聞の発行は大事業であったと推察されます。それというのも当時の民憲論は非常に根強く、政府との調停の役割をされる先生の立場も苦しく政府との意見の相違から数年の間に二度三度と発行停止処分を受けたとのことです。
❦明治二十一年
戊子除夜
孫子團欒膝下親 孫子団欒して 膝下に親し
笑談聲裡歳將新 笑談聲裡 歳 將に新たならんとす
休呼家僕鬼兮外 呼ぶを休めよ家僕「鬼は外」と
畢竟我廬無癘神 畢竟 我が廬に癘神(疫病神)なし
❦明治二十二年
己丑一月初夢
富士徹邊泛寶船 富士の徹辺に 宝船を泛べ
玉茄卵化産鷹鸇 玉茄卵化して鷹鸇(たか・はやぶさ)を産む
歳端初夢先如此 歳端の初夢 先づ此の如し
卜得本年亦奇年 卜し得たり 本年も亦 奇年なるを
【註】玉茄(なすび)俗に言う一富士二鷹三茄子のこと
明治二十二年と同二十三年の除夜・元旦の詩は見当たりませんが、先生はこの頃已に政治活動から身を引かれておられ、慶應義塾の運営に力を尽された時代であったようで、日常の作詩の数も少なくなり、比較的に穏やかな生活を過ごされたようであります。
❦明治二十四年
辛卯一月罹流行咸冒戯賦
辛卯一月 流行咸冒に罹り 戯れに賦す
東漸風光日日新 東漸の風光 日々に新たなり
已驚人事又人身 已に人事を驚かし 又 人身を驚かす
滿城狂熱恰如醉 滿城の狂熱 恰かも酔えるが如し
卽是文明開化春 即ち是れ 文明開化の春
❦明治二十六年
癸巳一月年六十歳戯賦
癸巳一月 年 六十歳 戯れに賦す
吾是十方世界身 吾は是れ 十方世界(天下御免)の身
由來到處物相親 由来 到る処に物と相親しむ
人言聞去皆稱善 人の言 聞き去って皆 善と称す
耳順何期六十春 耳順 何ぞ期せん 六十の春
【註】耳順とは孔子の言で六十にして聞いたことがすべて判るの意
しかしながら、明治二十三年に開かれた国会は明治二十五年には早くも解散されて政治の混乱の年であったことを思い合わせると、已に政治の世界から離れた先生であったとしても感慨深いものではなかったかと思われます。
❦明治二十七年
甲午元旦試毫 甲午 元旦 試毫
戯來戯去又迎年 戯れ來り 戯れ去り又 年を迎う
萬事不求祝瓦全 万事求めず 瓦全を祝す
子女今朝試毫處 子女 今朝 毫を試むるの処
乃翁亦誇墨痕鮮 乃翁(われ)も亦 誇る墨痕の鮮かなるを
【註】瓦全・・・瓦のように安全を保つことから何事も無く生き
長らえるの意をいう
❦明治二十八年
乙未元旦 乙未元旦
中外風光與歳遷 中外の風光 歳と與に遷る
往時回顧渺無邊 往時を回顧すれば 渺として辺なし
屠蘇先祝乃翁壽 屠蘇 先づ祝す乃翁(われ)の壽
六十二年如萬年 六十二年は 万年の如し
❦明治二十九年
丙申元旦 丙申元旦
日出之東日沒西 日出るの東 日沒するの西
春風萬里五雲齊 春風万里 五雲斉し(ととのう)
帝京朝賀人已散 帝京の朝賀 人 已に散ずるも
臺北臺南鷄未啼 台北台南は 鷄未だ啼かず
【註】日出之東 日清戦争で勝利をおさめたこと
❦明治三十年
丁酉元旦 丁酉元旦
成家三十七回春 家を成してより 三十七回の春
九子九孫獻壽人 九子九孫 壽を献ずるの人
歳酒不妨擧杯晩 歳酒妨げず 杯を挙ぐることの晩きを
却誇老健一番新 却って誇る 老健の一番新たなるを
❦明治三十一年
この年福澤先生は病を得て、病床に臥され事実上引退されました。没年は明治三十四年で享年六十六歳でした。この間に、自ら伝記をいくつか発行されておられますが、その一つである「福翁百話」の巻頭に七言絶句一首を載せられておられるので、これを最後に紹介致します。
題福翁百話巻首 題す福翁百話巻首
(明治三十年)
一面眞相一面空 一面は眞相 一面は空
人間萬事邈無窮 人間(世の中)万事 邈として窮りなし
多言話去君休笑 多言 話し去るも 君笑うを休めよ
亦是先生百戯中 亦是れ 先生 百戯の中
以上の如く毎年ということではありませんでしたが、元旦又除夜の詩を列記させていただきました。先生の心情を勘案しながら読んでいくうちに非常に興味深く感じたことがあります。それは詩文の中で「笑」の字をしばしば使われること、又「戯に作る」と添え書きされておられることです。言いかえますと先生の詩は志を述べると共にその反面では常に自らを省みることをなされておられたのではないでしょうか。それは積極的な行動に対する「自省」の精神を漢詩の形式で表現されたものと考える次第です。
お詫びと訂正
平成二十八年十一月作成の文章の中で福沢先生の漢詩の記載に誤りがありましたので深くお詫び申上げますと共にここに謹んで訂正させて頂きます。 (平成二十九年一月記す)
参考資料
注一 本文中の詩は岩波書店出版「福澤諭吉全集」第二十巻に基いております。
注二 近年になって福澤諭吉協会により定期的に発行されている「福澤手帖」に京都大学、慶應義塾大学等で教鞭を取っておられる金文京先生が、詳細に論評を連載されておられます。
注三 年表 明治の頃は干支による年号表示もよく使われておりますので西暦と揃えて一覧表を作りました。 (お願い)お問い合わせて等は〒248-0003 神奈川県鎌倉市淨明寺6-9-15 礒野衞孝 宛にお願いします |
東日本大震災千八百日(五年)有感 (平成二十八年三月十一日記) 礒野 衞孝 激震凶災何可忘 激震 凶災 何ぞ忘るべけんや! 喪親亡子滅家郷 親を喪い子を亡くして 家郷 滅されたり 妖魔未去五年過 妖魔(放射能) 未だ去らずして五年を過るも 復旧前途思渺茫 復旧前途 思いは渺茫たり 学童育育楽遊戲 学童 育育として 遊戯を楽しみ 校舎新装通僻地 校舎 新装なるも 僻地に通う 夢裏難忘狂怒濤 夢裏 忘れ難し 狂おしき 怒涛 慈親呑海咽悲涙 慈親 海に呑まれ 悲涙に咽ぶ 盛上四尋初並軒 土を盛ること四尋(七米) 初めて軒を並べるも 築堤五丈憚公論 五丈(十六米)の築堤 公論を憚る 寄寓寂寞歸郷里 寄寓 寂寞たり 郷里へ帰らんとす 離散一家危復元 離散せし一家の復元は危うからん 再通鐵路接阡陌 再び通ず鉄路 阡陌(道路)に接し 魚菜市場多少客 魚菜の市場にも 多少の客 處處街衢上炊煙 処処の街衢(町々)炊煙上り 得歸翁媼憩安宅 帰り得たり翁媼 安宅に憩う 核炉覆水只防崩 核炉 水に覆われ 只 崩るるを防ぐのみ 鎔断必封危急凌 鎔断(メルトダウン)必ずや封じ 危急を凌ぐべし 須待減衰天地理 須らく減衰を待つべし 天地の理なり 官民智慧正論凝 官民の智慧(智恵)正論を凝らせ 唯刪染土不知賄 唯 染土(表土)を刪も賄(処置)を知らず 亜水如何虞出海 亜水(貯水)は如何とす 海に出るを虞かる 牛歩雖然無事全 牛歩 然りと雖も 事の無きを全うし 妖魔封地減衰待 妖魔 地に封じて 減衰を待たん 断層活否杳模糊 断層 活ずくや否や 杳として模糊たり 誰確予知今古無 誰か予知を確るや 今古に無し 人使天風利光熱 人は天風をして光熱に利たしめたり 核炉須絶問賢愚 核炉 須らく絶うべし 賢愚に問わん
弁論壇上獨焦燥 弁論す 壇上にて独り焦燥たり 復興税制蓋空文 復興税制は 蓋し空文ならん 茲在難民唯養老
再蘇祭礼酔翁寛 再び祭礼蘇りて 酔翁 寛ぎ
麗舞氷盤喜極歓 麗しく舞う氷盤 喜びは歓を極める
挙世萬民郷土愛 世を挙げて万民 郷土を愛す
遥望遍得泰山安 遥かに望む遍く泰山の安ぎ得んことを
都人遍靡宝優銀 都人を遍ねく靡かせしは 銀に優る宝なり
覇道千年制丑寅 覇道 千年 丑寅(東北)を制す
必現聖賢東日本 必ずや現れん! 聖(人)賢(人) 東日本に
再興何日復逢春 再興は何の日か 復 春に逢はん |
「大漢和辞典」諸橋博士の色紙 礒野衞孝 |
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最近、あるご縁により 諸橋博士の直筆の色紙を戴きました。(下写真参照) この色紙の書かれた年号の壬辰は昭和二十七年であり七十歳前後のことと思われます。先生は東京師範の他青山学院大学でも教鞭をとっておられ、ここで漢文の授業を受けた学生の中に私の従姉妹がおり、先生から直接に手渡されたものとの事です。最近になって私が漢詩をやっている事を知り、押し入れから探し出してくれました。当時まだ学生だった従姉妹はそんな大博士とは露知らず、単に漢文の一老師としか思っていなかったそうです。 しかしながらこの一家の長女は書道塾を開いており書に対する見識は十分に持っておりましたが、やはり諸橋博士の威厳さがこれは大切に保存すべきだと思わせたと推測しております。 今あらためて博士の伝記を拝見しますと、戦後は全くの英語一辺倒の時代で普通の一学生に色紙を何枚も書いてくださるのは大変なことと思われます。 博士には若い者に托す漢字の将来への期待感がお有りであったのではないかと愚考する次第です。作詩をする身として諸橋大漢和は使わせて頂いておりますのでこの事があってから、大辞典第一巻の「序」と巻末の「跋」を読み 又、本棚に仕舞こんだ「漢字漢語談義」を再読させて頂きました。 兼々、大漢和の出版に至る経過は見聞きしておりましたが、今あらためてこの大辞典の出版大事業の尊さを認識し、博士の生涯を掛けた情熱と、戦災で出版設備一切を失った時のお気持ち、更に戦後無から再出発され昭和三十六年に完成を見た長い年月に堪えられた情熱と精魂に感じ入りました。その間に眼疾にも耐えられて多くの方々の助力も又大変な事と推測申しあげます。 この大漢和は正に漢字世界の金字塔でこれ以上の辞典は未曽有であり又今後も無いかと考えます。これからも大漢和をお使いになられる方々はこの「序」と「跋」をお読みくださればと思います。漢字は中国から伝来して、これから平仮名、カタカナが発明され今の日本文化が生れた訳であります。日本がアジア大陸の一部位置にある以上、漢字文化圏の国々との関係は続けて行くべきものと考えますが、旧漢字は、今は主として漢詩の世界と書道で生き残っている、と言っても過言ではありません。 「漢字は亡びず」、併せて「漢詩も亡びず」を信念に作り続けたいと思っております。 |
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追記 この文を書き終わりあらためて、博士の三つの詩を読み返しました。するとこの三つの詩は何かしら当時の先生の心境そのものの様に思えると感じた次第です。即ち、自ずから白髪となられて、戦災のこと、大事業の完成の気配が見え、その後に文人墨客との交流を予感され、宝剣ならぬ漢詩を後世の人に托されようとする心境を表わしているように感じました。 照鏡見白髮 鏡に照らして白髪を見る 初唐 張九齢 大意=唐の玄宗の宰相であったが安禄山を退けんとして挫切し退官した。 答李澣 李澣(友人の名)答う 中唐 吾応物 大意=蘇州で仁政を行った長官であるが、退官後の心境を友人に答えた詩。易書は読まず鴎の如く自由に詩人達と交遊
送朱大入秦 朱大(人名)の秦に入るを送る 盛唐 孟浩然 大意=孟浩年が友人を長安へ見送るに際し宝剣を送り別離を惜しんだ作。 |